ごあいさつ

この度は、永瀬音楽教室のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
このページでは、私の歩んだ「音楽の道」を記していきたいと思います。
この「道」が、現在の指導にも深く関係していると感じていますので、お読みください。

ピアノをはじめた時

クラシックが大好きな父と、学校の教員(音楽専科)をしていた母との間に誕生しました。
母は結婚を機に学校を退職し、私が生まれて間もない頃、近所の方からピアノを教えてほしいと頼まれて、ピアノの先生となりました。
両親は女の子が生まれたらピアニストにすることが夢でした。
そんな両親の期待を一心に背負い、2歳の時に母の手ほどきのもとピアノを始めました。
ステージデビューは3歳になってすぐの時でした。
お友達と「かえるのうた」を連弾したのを、今でもとてもよく覚えています。
たくさんの方々の前で講座をさせていただくようになった現在、あまり緊張せず落ち着いて話が出来るのは、物心がつく前からステージに立っていた経験があったからだと思っています。

幼稚園時代

ピアノが楽しくてしょうがなかった私とは逆に、母は出来の悪い娘に手を焼いていたようで、我が子という期待もあってか、何回言っても直らない私に毎日イライラしていたようです。
子供にとってピアノを弾くということが、どれだけ大変か思い知った母は、リズムはリズムだけ、読譜は読譜だけと分けて教えたら、私が思いの外、出来るようになったようで、この時に「5つの分野に分ける指導法」が確立されました。

小学校時代

小学校時代の思い出は、毎週土曜日に学校を早退して、桐朋学園大学音楽部付属子供のための音楽教室に通ったことです。
クラスがレベル別になっていたのですが、当時私は一番上のクラスに在籍していて、ピアノだけでなく、バイオリンやチェロをやっているお友達に囲まれて授業を受けたり、みんなと合唱をした経験は、今でもとても役に立っています。ピアノのコンクールに初めて挑戦したのも小学生の頃でした。
入賞すると、帰り道に大きなパフェを食べさせてもらって、ぬいぐるみを一つ買ってもらえることが嬉しかったのを覚えています。
この時、母の生徒数は116人と、永瀬音楽教室は地域でも人気ナンバーワンのピアノ教室で、私の同級生だけでも40人くらい習いに来ていました。
毎日当たり前のようにピアノを弾いていましたが、ピアノが無い人生を少しずつ考えはじめた時期でもありました。

中学時代

周りのお友達が、部活動を始めるなか、ピアノの練習があるため運動部に入れなかった私は、ピアノを続けることに対して疑問を持ち始めました。
今まで両親に言われるままに、ピアノを続けてきましたが、本当に自分が好きでやっていたわけではないことに気が付き、ここで一旦ピアノはお休みすることにしました。
一度ピアノを辞める経験をしているピアノの先生は少ないと思いますが、この時の経験により、私は練習したくない子供の気持ちが、すごくよく分かるピアノの先生となりました(笑)

声楽との出会い

毎日コツコツと何時間も練習するピアノには向かなかった私ですが(笑)
音楽はずっと好きでした。
中学時代は部活というものを経験しなかったため、高校では皆で一つの事に向かって頑張る部活に入りたいと強く思い、当時全国大会の常連校だった高校のコーラス部に入部することにしました。
オーストリアで行われた「世界コーラスオリンピック2000」で金賞をいただいたり、NHK全国学校音楽コンクールや全日本合唱コンクールをはじめとする国内コンクールの全国大会でも、たくさんの賞をいただくことが出来ました。
また、NHK全国学校音楽コンクールでの様子がテレビで全国放送されました。
そして、高校3年生の時、2500人収容出来るソニックシティの大ホールでモーツァルトレクイエムのソプラノのソリストを務めたことは、私の人生で忘れられない出来事となりました。

大学時代

音楽大学に進学するつもりはありませんでしたが、高校時代部活漬けの毎日を送っていた私に唯一残っていたものは「音楽」だけでした。
芸は身を助けると言いますが、本当にその通りだと思います。
母と電車の路線図を広げて、自宅の最寄り駅から電車一本で行けるという理由で東京音楽大学を選びました。
大学に入学してすぐの頃、母に病気が見付かり、母の具合の悪い日だけ母の生徒のピアノレッスンを手伝うことになりました。
私のピアノ指導者デビューは、自ら希望したわけでもなく、家族の一員として母の仕事を手伝わければいけない、という「義務」からスタートしました。
しかし、18歳になったばかりの若い年齢からピアノ指導に携われたことは、他の人よりも多く良い経験が出来たと今では誇りに感じています。
大学時代にもNHK交響楽団と共演し、テレビで全国放送されたり、ライブのサポートミュージシャンとしてピアノやコーラスをさせてもらったり、レストランやラウンジでのピアニストなど、たくさんの経験をしました。
また吹奏楽とオーケストラでは打楽器を担当しました。
「司会」という変わったお仕事も経験し、時には総理大臣とお仕事をすることもありました。

大学卒業

高校時代の部活動の経験を生かして、教員になり部活指導をしたいと思っていた私は、教員採用試験にチャレンジしました。
しかし当時は倍率が36倍と大変厳しいものでした。
とにかく子供と音楽をすることを仕事にしたいと思っていた私はヤマハ音楽教室のシステム講師の試験も受けました。
結果は見事合格!
7年間、1歳から中学生までの可愛い子供たちと、エレクトーンでアンサンブルしたり、即興演奏をしたりと、素晴らしい経験が出来ました。
ずっと、両親に「やらされてきた」ピアノでしたが、自然とピアノの先生となりました。
子供は親の言うことは聞かないけれど、親の行動は真似をするということが身を持って体験出来ました。
今では「ピアノの先生ほど良い仕事はない」と本気で思っています。

子供の死
母の死
娘の誕生

結婚して2年が経ち初めて子供を授かりましたが、安定期に入った頃、何の前触れもなく突然生まれ、すぐに亡くなってしまいました。
手のひらに乗せられるくらいの、小さくて可愛い赤ちゃんでしたが、母が生きている間に、孫の顔を見せてあげられて良かったなと思ってます。
その3ヶ月後、母も天国へと旅立ちました。
母の法要が落ち着いた頃、妊娠が分かり、2015年に元気な女の子の母となりました。
辛い思いを経験したからこそ、前より人の気持ちが分かるようになりました。
そして母となり、今までは子供目線で考えていた事も、親目線になって考えることも出来るようになり、レッスンでの声のかけ方や、家庭練習の具体的なアドバイスなど、親子に寄り添いながら日々レッスンをしています。
そして、目先の結果に惑わされることなく、20年後に「あやか先生にピアノを習えて良かった!」と思ってもらえるようなレッスンを心がけています。

指導の想い生徒と共に指導者も
成長し続ける

今の時代、ピアノが弾ける保護者の方は沢山いらっしゃいます。
音符とリズムを読んで、ただピアノを弾けるようにするだけでしたら、わざわざお金を払って習わせなくても、ご両親がご自身でお子さんを教えることも出来ると思うのです。
それをレッスン代を払って先生に習わせるからには、お母様、お父様には出来ないプロの指導を期待してのことだと思います。
その期待に答えられる価値あるレッスンをご提供出来るよう、常に勉強をし、プロの指導者として成長し続けていきたいと考えております。

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